完成しない家=建築と建て主のいい関係

仕事柄というか、当たり前のことなんですが、近くで話題になっている建物を見に行くことがよくあります。特に公共建築物の場合、もちろん竣工したてではとてもきれいだし物めずらしさも手伝って人もたくさん集まっていたりします。
でも何年か経ってまた同じ建物を見に行くとそのあまりの荒廃ぶりに驚いてしまうことが結構あります。
施設の性格がはっきりしていなかったり、保守計画がしっかりできていないという建て主側の問題もあるのでしょう。でも根本的には人が積極的に関わってくれないことが、こういった不幸な結果を招いているように思います。(建主=建物使用者じゃないところがまた難しいですが)

よく結婚のことをゴールではなくスタートだという人がいますが、建築物についても同じことが言えるのでないでしょうか?
建築物の竣工もゴールではないですよね。(そんなこと設計屋ぐらいしか思わないかな)出来上がってからがその建物の人生?のスタートなんだってのは当たり前の話です。

住宅について考えて見ましょう。幸いにも建売を除いては建築主が建物を使用する人になるのが個人住宅です。建て主と建築のいい関係を作るチャンスが手を伸ばせばそこにあるような感じがします。
人が住まなくなった家はすぐにだめになってしまうという話しを聞いたことがあるでしょうか?建物は生物ではないので、中に人がいようがいまいが同じように老朽化する様にも思えますよね。でもどうもそうではないらしいです。
住まい手にその気がなくてもきっと知らず知らずのうちにメンテナンスをしていたりするんでしょうね。
結露(壁や窓などに水滴ができる現象)すれば雑巾でふき取ってみたり。窓を開け放して換気をしたり、夏の日差しが強いときにはカーテンを閉めたり・・・。
住まい手が自分の生活のためにしていることが、実は建物のためにもなっていたりするんでしょう。もともと住宅は人の生活に合わせて作られたものなので、人の生活がそのままメンテナンス行為になるんでしょう(もちろん意識的なメンテナンスも大切ですが)。

まあこのあたりは建物のハードとしての話で、建物が出来上がったときの価値が100として、その価値が年々下がっていく・・・。保守メンテナンスをしっかりやればその下がり方を抑えられる・・・。っていうのが日本での建築物に対する普通の価値観だったりします。
なんか寂しい気がしますね。
ヨーロッパにおいて中古住宅は住まい手が手を入れることによって、その価値(率直に言ってお値段)がどんどんあがって行ったりします。偉いのは単にハードとしての建物だけが評価されるだけではなく、中身の割とソフトに近い部分の手入れが評価されたりもするようです。日本も少しずつそんな感じになっていってくれたらなと思います。

私は人が積極的に関わってくれるような建物を作りたいと思っています。
公共的な建築物はもちろん個人住宅においてはなおさらです。
こちら(福岡)では東京に比べて日曜大工のお店が多いように感じますが、それはすばらしいことだと思います。
もちろんハード面でかかわってもらえるのはとてもうれしいんですが、一歩進んでソフトとしても建物をいじってもらえたらもっといいなと思います。色であったり形であったり間取りであったり(間取りはもともと準備していないと難しいかな?)・・・。
デザインなんてビタミンみたいなもので、全くなくてもとりあえず生きる分には支障がないって思えますよね。でもなければ健康には生きられない・・・。デザインなんていうからなんかお高く聞こえますが、要は個人が気持ちよくすごせる仕掛けって事だと思います。で、しつこくビタミンの話に戻すと、人によって体が欲するビタミンはAだったりCだったり色々でしょう。で、建築家の仕事はそのビタミン剤が飲める環境と、飲みやすいよう味付けをしておくことではないかと思うんです。いや時には想定外の強力ワカモトなどの栄養剤を飲みたくなるかもしれません・・・。(だんだんわけが分からなくなってきました。)
とにかくよく雑誌に出ている生活観のないピカピカで写真写りのいい建物ではなく、人が使いそして変化させることで更なる味わいを持つような建物を作りたいということです。(生活している方が写真写りがいいという家ですね)
前に人が快適に生活しようとすることがその家のメンテナンスになると書きましたが、せっかくなのでデザインも快適な生活を構成する一要素に加えましょう。それはきっと住まい手が感じられる住宅の価値に返ってきます。

工事の完了は決して家の完成ではないと思います。住宅は住まい手が家に関わっていくことで完成していくものだと考えています。いや、いい家というのはいつになっても完成しない家なのかもしれません。建築家の仕事はその建物と建て主との関係がよりよいものになるような仕組みを考える事なのではないでしょうか。